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雲母寄稿文『地方の学生がアトリエ事務所に入るまで』

京都造形芸術大学の通信制大学院 建築コースにて、2012年から住宅設計のスタジオの非常勤講師を7年勤めました。
2019年度いっぱい、担当スタジオの教授で、わたくしの師匠である伊藤寛先生が退官された今年2020年の3月、修了式が最後になるはずでしたが、コロナの影響で秋に延期され、なんとも言えない立場です。笑 
正確には、まだ講師なんですけど、スタジオの担当は仕舞いです。

横内敏人先生、堀部安嗣先生、数年ご一緒させていただいた三澤文子先生。
学生指導の場を通じての贅沢な学びの機会でした。感謝の気持ちでいっぱいです。
(と、誰も読まないであろうブログに綴るあたり。。)

非常勤の同僚(というのもおこがましい)鎌田秀章先生 豊田保之先生 丸山弾先生
皆さん気配りとホスピタリティの凄さ。
この年月で己の欠けに気づくことができたのも得難い機会でした。
あまり活かせていなくてごめんなさい…苦笑

スタジオや他のスタジオの学生たちは、通信制のコースだったこともあり、人生の先輩も多く。社会人としても設計事務所の経営者としてもこちらが学ぶ立場ですから、、という方も多く居ました。

年に4回の京都出張や合評会後の懇親会。様々な機会にご一緒できたのも楽しかったなぁ。


伊藤寛先生。スタッフとして働いていた時には見えていなかった建築の核となる考え方を、指導をご一緒することで初めて理解できた7年でした。最初の頃は「あっぷあっぷ」で大変でした・・・この機会を与えてくれたこと、感謝しても仕切れません。

ここで得たものをどこでお返しできるのだろうか、お返ししなくては。
最近そんなことを考えています。



梅雨入りした6月の今日、こんな変なタイミングで振り返りをなぜするかと言いますと、
7年の間に溜め込んだファイルを(会議録、指導のために集めたり、作成した資料も)重い腰をあげて整理をしました。(まだ終わってませんのですけど笑)

「雲母(きらら)」という学生向けの冊子に、教員によるリレー式エッセーのコーナーがあるのですが、担当3年目の当時(2014年11月号)に寄稿した原稿を発見しましてここにもあげておくことにします。
誰か必要な方に読まれる日も来るかもしれません。笑
学生がコピー取って回しいてたと言われ、びっくりしたことがあったのですけどね。

確かに、自分のどこかでくすぶっていた「黒歴史」を言語化する機会になったのです。


「すみずみまで自分の目が行き届いた空間を造れるように」

などとは。確かに考えていましたね!
おかげで今まで大変ですが(苦笑)、この原稿を発掘したことで、改めて思い出すことができました。よろしければ、ご笑覧ください。
    

    *          *          *


『地方の学生がアトリエ事務所に入るまで』


すみずみまで自分の目が行き届いた空間を造れるようになろう。
 卒業したらアトリエ事務所に入って住宅設計の仕事をしよう。

 大学で建築学科に入り、設計課題に取り組むうち、私はこんな風に考えるよ
うになっていた。旅や、人の影響もあったが、なぜかビルなどの規模の大きな
建築には関心が持てなかった。
 当時、地方の学生にとって建築家は雑誌の中の存在だった。就職先はアトリ
エ事務所、しかも東京の、と思い込んではいたが、ツテも具体的なあても無か
った。M1になった夏休み、先輩の紹介と、JIAにも応募して東京の設計事務所
にオープンデスク生として通った。遠い存在が一気に身近になり、楽しかった
ことを思い出す。その夏のもう一つの収穫として、訪ねて行った先輩の「その
先生のデザインが本当に好きでなければアトリエ勤務は続かない」という言葉
を私は大事に持ち帰った。
 冬になると、周囲は就職活動で騒がしくなった。設計志望の同級生達は、製
図室にブースを張って早々にポートフォリオを造りはじめた。大手の組織事務
所やゼネコンは試験の時期が早い。「一度組織に入って、社会経験を積んだ方
が良い、アトリエ事務所に入るのはそれからでも遅くないはず。」何の見通し
もない状況で、親の助言はもっともに聞こえた。会社に入ってからの仕事には
全くリアリティーが持てないまま、自分も泊まり込みでポートフォリオを仕上
げ、中堅の組織事務所を受けた。
 丁度氷河期と言われる不況に入った頃、学校推薦の枠もないところに、女子
学生の入り込む席は無かったようだ。1社受けておけば、親への言い訳も立つ
とシナリオの内だったにも関わらず、意気消沈する自分が居た。心が定まらな
いことへの自己嫌悪もあった。何ともヤワな話なのだが、試験に落ちたのはそ
の時が始めてだった。
 煮詰まったままM2の夏になった。
このままで居る訳にはゆかぬ。研究室の鍵のかかった先生の部屋から建築雑誌
のバックナンバーを持ち出し、夜な夜な頁をめくった。「そんな方法じゃ見つ
からないよ」という先輩の助言にも、手は止まらない。図書館で住宅に関する
本をあたり、本屋で雑誌を立ち読んだ。
 たくさんのデザインを見て、食傷気味になるほど。素晴らしいと感じる作品
も、そこで働くことにはピンと来ないこともあった。そうしているうち、ある
別荘に、また別の雑誌で内外土塗り壁の住宅に目を奪われた。そして、それが
同じ建築家の手によるものだとわかったとき、訪ねるべき相手を見つけたこと
が解った。自然素材を使っているだけでなく、形をポジティブに扱い創造の自
由が感じられた。「こんな風に造るんだ」と聞こえるようだった。
 夏の盛り、ビアガーデンでアルバイトをし、バイト代を受け取ると、ポート
フォリオを持って再び東京にやって来た。折角来たのだから、と できるだけ
廻るつもりだったのに、第一志望の事務所を訪ねてしまうと、やるべきことは
やったように思え、私は学校に戻ることにした。

 年末、運良く内定を貰い、卒業後は晴れて事務所のスタッフとして働き始め
た。約5年勤めたことになる。かつて煮詰まっていた学生は、自分の事務所を
つくり、学校で教えるようになった。I先生には感謝しかない。内定を告げる電
話で何気なく口にされた、「まずは大学院を卒業することだな」という言葉が
なければ、無事に修論を提出できていたかも怪しいのだから。

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by o-oik | 2020-06-11 21:13 | 日常


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